【4コマ漫画】妻問婚はなぜ現代では成立しないのか?理由と比較分析

妻問婚(別名通い婚)とは、古代日本における特徴的な結婚制度の一つです。しかし、なぜこのような婚姻形態が生まれ、どのような社会的背景があったのかを知る人は多くありません。現代の結婚制度とは異なるこの仕組みは、どのようなメリットやデメリットを持ち、どの時代まで続いたのでしょうか。
妻問婚と現代の通い婚の違いを理解することで、当時の社会のあり方が見えてきます。奈良時代の貴族をはじめとする上流階級では、女性の実家に夫が通う形が一般的でした。しかし、時代の変化とともに、妻問婚はいつまで続いたのか、なぜ廃れてしまったのかが気になるところです。
また、もし妻問婚の形が逆だったら、つまり夫の家に妻が通う「夫問婚」のような制度だった場合、歴史はどう変わっていたのでしょうか。もしも妻問婚が現代に存在したら? そんな仮定を4コマ漫画で見て、現代の結婚観と比較しながら、妻問婚をわかりやすく解説します。
- 妻問婚が生まれた背景や社会的な理由を理解できる
- 妻問婚と通い婚の違いや、当時の結婚制度の特徴を学べる
- 妻問婚のメリット・デメリットと、その影響を知ることができる
- 奈良時代を含む歴史の中で、妻問婚がいつまで続いたのかを理解できる
妻問婚はなぜ生まれた?その背景を解説
妻問婚(つまどいこん)は、古代日本において一般的だった結婚形態の一つです。現代の結婚とは異なり、夫が妻の家を訪ねる形をとるこの制度は、当時の社会構造や家族制度と深く結びついていました。特に母系社会の影響を強く受けており、女性の実家が重要な役割を果たしていたことが背景にあります。また、奈良時代には政治的要因も絡み、貴族層を中心に発展していきました。では、妻問婚がどのような社会的要因のもとで生まれ、どのように機能していたのかを詳しく見ていきましょう。
妻問婚が現代にあったらどうなる?漫画『俺だけ古典ルールで生きろって言われた件』で解説

もしも、現代が妻問婚だったら、この漫画のようなことが起こります。妻問婚は女性のところに男性が通うのですが、複数の男性が同時に鉢合わせることもありました。そんな時は、後から通ってきた男性は女性に逢えないこともあったようですよ。また、結婚を成立させるためには連続で通わないといけないこともあったので、忙しい時は非常に大変だったようです。平安時代の婚姻儀礼「三日夜(みかよ)の餅」は、男性が3夜連続で女性の元に通うことで婚姻成立とする風習でした。
妻問婚と通い婚の違いとは?

妻問婚と通い婚は、どちらも夫婦が別々に暮らし、定期的に一方がもう一方を訪ねる結婚スタイルですが、根本的な背景や社会的な仕組みに違いがあります。
まず、妻問婚は古代日本の結婚形態で、特に平安時代以前に広く行われていました。この制度では、男性が結婚後も妻の家に通い続け、子どもは妻の実家で育てられるのが一般的でした。夫は一定の頻度で訪れますが、基本的には自分の実家に住み続け、経済的な基盤も夫婦別々です。このため、母系社会の特徴が強く、妻側の家族が子どもの教育や財産管理を担いました。
一方で、現代の通い婚は、夫婦が意図的に別々の家に住みながら、定期的に会うスタイルを指します。その理由は多様で、仕事の都合やライフスタイルの違い、家族の事情などが関係しています。現代の通い婚では、夫婦それぞれが自立した生活を送りながら関係を続ける形が多く、妻問婚のように一方の家族が育児や財産を管理することはありません。
このように、妻問婚は社会制度としての側面が強く、母系制に基づいた文化的背景を持つのに対し、通い婚は個人の価値観やライフスタイルの選択として行われる点が大きな違いといえます。
妻問婚はいつまで続いた?奈良時代との関係

妻問婚は、古墳時代にその仕組みが確立し、奈良時代から平安時代初期まで日本の一般的な結婚形態として続きました。古くは『万葉集』にも、夫が妻のもとへ「通い婚」をしていたことを示す歌が複数あり、「夫が妻のために家を建て、そこに通った」という表現も見られま。しかし、平安時代中期以降になると、徐々に婿取婚(むことりこん)へと移行し、最終的には嫁入婚(よめいりこん)が一般的になっていきます。
婿取婚とは夫を妻の家に“迎え入れる”形の結婚で、妻問婚が形式化・同居化したものです。またこの段階では夫婦が妻側の家で同居するようになり(夫が妻の氏族に事実上婿入りする形)、後の嫁入婚(妻が夫の家に入る結婚形態)への過渡期でもあります。
奈良時代は、日本の政治制度が中国の律令制を取り入れて整備された時期です。この影響により、貴族や上流階級の間では家父長制が強まり、女性の家族が夫を迎える婿取婚へと移行する動きが見られました。しかし、庶民の間では妻問婚の習慣は根強く残り、すぐには変わりませんでした。
また、奈良時代の政治の中心であった藤原氏をはじめとする貴族たちは、妻問婚の慣習を利用して外戚関係を築きました。特に、藤原良房が外祖父として摂政の地位を得たことが、摂関政治の始まりとされています。しかし、平安時代中期になると、妻問婚ではなく、より明確に夫婦が同居する婚姻制度が求められるようになり、婿取婚が一般化していきました。
こうして、妻問婚は平安時代の中頃まで続きましたが、貴族社会の変化とともに消滅していき、最終的には家父長制の強い嫁入婚が定着していくことになります。
世界的に見ても母系制の社会では夫が妻側に通う婚姻が多く見られることが知られており、今では特異に思うこの形も珍しいものではなかったようです。
妻問婚のメリットとは?当時の社会的利点

妻問婚には、当時の社会構造に適したさまざまな利点がありました。
まず、女性の実家で子どもを育てるため、母親の家族が育児を支援できる点が大きなメリットでした。古代の日本では、乳幼児の死亡率が高かったため、経験豊富な祖母や叔母が協力して育児を行うことが子どもの生存率を高める要因となりました。また、妻の実家が子どもを育てることで、母系制が維持され、財産や地位が母方の家系で継承される仕組みも作られていました。加えて、妻問婚では形式上「夫が妻を訪ねる」形ですが、実際には女性側が結婚の可否を決定していました。
次に、夫は自分の実家や社会的な役割に縛られず、妻の家に自由に通うことができたため、狩猟や農耕、政治活動に専念しやすい環境が整っていました。特に貴族や豪族の間では、夫が一度に複数の女性と関係を持ち、政治的なつながりを広げることができたため、婚姻が一種の外交手段として機能しました。
例えば、平安時代の藤原氏は娘を天皇に嫁がせ、その子(天皇となる皇子)を母方である藤原氏の元で育てました。この結果、孫である天皇に対し外祖父の藤原氏が強い影響力を及ぼし、外戚政治を可能にしました。藤原良房が孫の幼帝の摂政となった事例はその典型で、妻問婚の慣習が政治権力の継承にも関与したことを示しています
さらに、夫婦が別々に住むことで、結婚生活におけるトラブルが少なくなるという側面もありました。現代でも「適度な距離感が夫婦関係を長続きさせる」といわれるように、当時も同じ家に住まないことで互いの干渉が少なくなり、夫婦関係が円満に保たれることがあったと考えられます。
しかし、この制度には男性側が育児に関与しにくい、女性の側が経済的に自立しにくいなどのデメリットもありました。それでも、当時の社会では妻問婚の仕組みが生活様式に適しており、長い間続いた理由の一つといえるでしょう。
妻問婚のデメリットとは?現代と比較してみる

妻問婚には当時の社会に適した利点がある一方で、いくつかのデメリットもありました。現代の結婚制度と比較すると、その違いがより明確になります。
まず、夫婦が同居しないため、子育てにおける父親の関与が少なくなる点が挙げられます。現代では、共働き家庭の増加に伴い、父親も育児に積極的に関わることが求められていますが、妻問婚では基本的に子どもは母方の家で育てられるため、父親との関係が希薄になりがちでした。特に、夫が貴族や武士であった場合、政治的な活動や戦に出向くことが多く、子どもと過ごす時間はさらに限られていました。
また、夫婦が別々に暮らすことで、経済的な負担が分散されにくいという問題もありました。現代では夫婦が協力して生活費を分担することが一般的ですが、妻問婚では妻が実家に住み続けるため、生活の維持は主に妻の家族に依存していました。これにより、妻側の家族に経済的な余裕がない場合、結婚生活が不安定になることもありました。
さらに、夫が複数の女性のもとを訪れることが可能なため、婚姻関係が不安定になりやすいという側面もありました。現代の結婚は一夫一婦制が基本ですが、当時の貴族や上流階級では、妻問婚の仕組みを利用して複数の女性と関係を持つことが珍しくありませんでした。そのため、女性側は夫に頼りきることが難しく、心理的な負担が大きかったと考えられます。
現代と比べると、妻問婚は夫婦の協力や家庭の安定という点で課題が多く、父親の育児参加や経済的なパートナーシップといった面でのデメリットが際立ちます。こうした背景もあり、社会の変化とともに妻問婚は次第に廃れ、現代のような夫婦同居の形が主流になっていったのです。
妻問婚はなぜ廃れた?現代ではあり得ない理由
かつて広く行われていた妻問婚は、時代の変化とともに次第に廃れていきました。奈良時代以降、家父長制の影響が強まり、夫婦が同居する婚姻制度へと移行していきます。さらに、社会構造や経済の変化により、夫が通う形の結婚は現実的でなくなりました。現代の価値観やライフスタイルと照らし合わせると、妻問婚が存続するのは難しかったといえます。それでは、具体的にどのような要因が妻問婚の衰退を招いたのかを見ていきましょう。
妻問婚が逆だったら?現代の男女関係と比較

もし妻問婚の仕組みが逆で、妻が夫の家に通う「夫問婚」という形であったら、当時の社会はどのように変わっていたでしょうか。思考実験をして現代の男女関係と比較しながら考えてみましょう。
まず、古代日本は母系社会の影響を強く受けていました。子どもは母方の家で育てられ、財産や地位も母方の家系で受け継がれることが一般的でした。そのため、もし夫ではなく妻が夫の家を訪ねる制度になっていた場合、子どもの養育や財産継承の仕組みが大きく変わっていた可能性があります。特に、母方の家を中心とする社会構造が崩れ、父方の家系が重要視されるようになっていたかもしれません。
一方で、現代の結婚制度と比較すると、夫婦が同居しない点は共通しています。現在でも、仕事の都合やライフスタイルの違いから、週末婚や別居婚を選択する夫婦がいます。この視点から考えると、「夫問婚」が成立していた場合でも、男女が対等な関係を築くことは可能だったといえます。しかし、当時の社会において女性が頻繁に移動することは難しかったため、実際には実現しづらい制度だったでしょう。
また、現代の価値観から考えると、夫婦が対等に関係を築くためには、どちらか一方が訪ねる形ではなく、共に暮らす方が理にかなっています。そのため、たとえ「夫問婚」の形が存在したとしても、最終的には夫婦同居のスタイルへと移行していった可能性が高いでしょう。
このように、妻問婚が逆の形になっていた場合、社会の構造や家族の在り方が大きく変わっていたかもしれません。しかし、現代の視点で見ると、夫婦が協力し合いながら生活する方が合理的であり、最終的には現在のような夫婦同居のスタイルが主流になっていたと考えられます。
妻問婚は現代では成立するのか?

妻問婚が現代の社会で成立するかどうかを考えると、その実現にはいくつかの課題があります。古代では母系社会の影響により、夫が妻の家に通う形が自然でしたが、現在の社会構造では夫婦が同居する形が一般的です。そのため、現代において妻問婚をそのまま適用することは容易ではありません。
まず、現代社会では夫婦が共働きであることが一般的です。妻が実家に住み続け、夫が通う形になると、生活費の分担や家事の役割分担が難しくなります。また、夫婦のどちらかが転勤や引っ越しを伴う仕事をしている場合、定期的に通うことが困難になる可能性もあります。そのため、現代では妻問婚のような形よりも、夫婦が一緒に暮らす方が実用的といえるでしょう。
一方で、夫婦のライフスタイルの多様化により、妻問婚に近い関係を選ぶ人もいます。例えば、仕事の都合で別々に暮らしながら関係を続ける「別居婚」や、週末のみ一緒に過ごす「週末婚」などが現代の夫婦の在り方として存在します。これらの形態は、妻問婚の考え方に通じる部分があるといえます。
ただし、現代では結婚においてお互いの協力が求められるため、妻問婚が主流になることは考えにくいでしょう。夫婦が共に生活し、家事や育児を分担することが一般的になっているため、かつてのような妻問婚の形をそのまま適用するのは現実的ではありません。
このように、現代において妻問婚を完全に成立させるのは難しいですが、ライフスタイルの多様化により、似たような形の結婚スタイルを選ぶ人は一定数いると考えられます。社会や価値観の変化とともに、夫婦の関係のあり方も多様化しているため、昔の制度を新しい形で取り入れることは可能かもしれません。
妻問婚に関するよくある疑問とその答え

妻問婚について興味を持つ人の中には、さまざまな疑問を抱くことがあるでしょう。ここでは、特によくある疑問を取り上げ、それに対する答えを紹介します。
Q1. 妻問婚はすべての身分の人に共通していたのか?
A. いいえ、妻問婚は主に貴族や上流階級の間で広まっていた制度です。庶民の間では、農業や家業の関係で夫婦が同居することが一般的であり、すべての人が妻問婚を実践していたわけではありません。特に、貴族は女性の実家が権力を持っていることが多く、男性が通う形の結婚が合理的だったと考えられます。
Q2. 妻問婚では子どもはどのように育てられていたのか?
A. 基本的に、子どもは母親の実家で育てられることが一般的でした。父親が定住していないため、養育の責任は母方の家族が担っていました。これにより、女性側の家が経済的な安定を維持しやすく、子どもの成長環境も安定していたといわれています。
Q3. なぜ妻問婚は廃れたのか?
A. 社会の変化による影響が大きいです。農耕が発展し、家族単位での労働が重視されるようになると、夫婦が同じ家に住む方が合理的になりました。また、中国の儒教的な家父長制の影響を受け、父方の家系が重要視されるようになったことも、妻問婚が廃れる要因の一つとされています。妻問婚が主流だった氏族社会(共同体的な財産共有)から、土地や財産を一家単位で管理する社会(封建領主制)へ移行する中で、夫婦が同居し家産を一元管理する必要性が高まったのです。
Q4. 現代でも妻問婚のような関係は存在するのか?
A. はい、一部の夫婦やカップルは、似たような形態の関係を築いています。例えば、仕事の関係で別々に暮らしながら週末だけ一緒に過ごす「週末婚」や、正式な婚姻関係を持たずにパートナーの家を訪れる「事実婚」などが、妻問婚に近い形といえるでしょう。ただし、現代では結婚の形が多様化しており、一つのスタイルに縛られることなく、それぞれのライフスタイルに合った関係を選ぶ人が増えています。
このように、妻問婚には多くの興味深い特徴があり、現代の結婚や恋愛とも関連づけて考えることができます。歴史的背景を知ることで、結婚や家庭の在り方について新たな視点を得ることができるでしょう。
妻問婚はなぜ生まれ、なぜ廃れたのか?その歴史と影響

記事の内容を以下にまとめました。参考になったらうれしいです!
- 妻問婚は母系社会の影響を受けた結婚形態
- 夫が妻の家を訪れることで女性の家族が子育てを担った
- 貴族や豪族の間では婚姻が政治的な意味を持った
- 夫婦が別々に暮らすことで結婚生活のトラブルが少なかった
- 子どもは母方の家で育てられ、財産も母系で継承された
- 夫が育児に関与しにくく、子どもとの関係が希薄になりがちだった
- 妻の家が経済的負担を多く背負う仕組みだった
- 貴族階級では複数の女性と関係を持つことが一般的だった
- 奈良時代以降、律令制度の影響で家父長制が強まった
- 平安時代中期から婿取婚へ移行し、妻問婚は衰退した
- 農耕社会の発展により夫婦が同居する必要性が高まった
- 現代では「週末婚」や「別居婚」が妻問婚に近い形といえる
- 現代の結婚制度では夫婦の協力が求められるため成立しにくい
- 妻問婚が逆の形であれば父系社会の進展が早まった可能性がある
- 歴史を知ることで結婚や家族のあり方を考えるヒントになる



